5年前、2歳だった娘がおよそ1年お世話になった保育園は、うちから歩いて5分のところにあります。日本に戻ってから1ヶ月、やっと少し暮らしも落ち着いてきて、ママチャリで前を通りかかったら、息子が「中に入りたい」といいます。子育て支援室っていうのがあったなあ、と思い、事務室でいろいろ聞いてみると、毎日午前中の9時から12時まで、無料で開放されていて、遊べるんだとか。
それならさっそく、とお部屋のドアを開けてみると、親子連れで満員、ものすごい熱気!!!! 赤ちゃんもたくさんいます。11時前には、15分ほどですが、保育士さんによる手遊びや、踊りの時間も。親子ですっかり楽しんで帰ってきました。
上の娘が生れたときには、こんな部屋はなかったです。どこにも行く場所がなくて保育園に顔を出して、赤ちゃんをお世話している先生のところに行って離乳食のあげ方などを聞いていたりはしましたけれども、行っても、いる場所はなかったのに。当時は公立で、私の娘が入った年から民営化されて、園舎も建て替えになったから、こういう設備が整ったんでしょうが…。ほんとうに、幼稚園に入る前の子どもをつれていく場所って限られてくるので、こうした子育て支援はありがたく感じました。
それからほとんど毎日、保育園に遊びに行っています。
きのうのことです。NHKでも毎日やっている「ぐるぐるどっかーん」をみんなで踊っていると、娘の担任だったふたりの先生が、鼻水を思いっきりたらしている赤ちゃんをそれぞれ抱っこして、部屋にかけこんできました。みんなで踊っている最中なので、話すわけにもいかず、でも、顔を見て「あー!!!!」と思いました。
踊りが終わって「お久しぶりです!」「アメリカから帰ってきました!!」と、先生たちと話すことができました。何かのついでに来てくださったのかと思ったら、玄関から入っていく私を事務室から見かけた担任の先生のうちのひとりが発見し(この先生は、いまは偉くなってペーパーワークをしたり、あちこちに助っ人に行っているらしい)、いまはゼロ歳児担任のもうひとりの先生を呼びに行って、ふたりのゼロ歳児をひとりずつ抱っこして、子育て支援の部屋に急いでやってきた、という次第だったようなのです。
その日は「早くしないと、ぐるぐるどっかーんが始まっちゃうよ!!」と、大急ぎで玄関を通りすぎただけだったのに、それを遠目で見逃さずに来てくださったなんて…。
涙、涙でお別れしてから、もう5年になるんです。3歳になったばかりの娘は、保育園のお友達と一緒に卒園することはできず、アメリカの幼稚園を卒業して、アメリカの小学生になり…。日本では影も形もなかった下の子が、いまや3歳。子どもたちを見ていると、月日の流れの速さばかり感じてしまいますが、保育園の先生たちは、髪型も雰囲気も、ちっとも変わっていませんでした。
3人の担任の先生のうち、ふたりは新卒で、ほんとうに初々しくかわいらしく元気で、ピンクの前掛けがとても似合っていて。もうひとりの中堅の先生は、きりっとして頼りになって、しゃべりだすととまらなくて、そこがまたかわいらしい。新卒だった先生ふたりは、少し初々しさがとれて、新人ではなく若手という雰囲気に、中堅だった先生はだんだんベテランの風格が出てはいました。5年前に一緒にクラスを担任していた3人の先生たちも、その後はずっとばらばらに仕事をしていたんだそうです。先生たち3人を目の前にすると、5年前に戻ったようでした。気がついたら先生たちも、私も、泣いていました。
娘も連れてきてくださいね、夕方ならそんなに忙しくないからいつでも大丈夫ですよ、といってくださったので、その日の夕方に娘を連れて保育園に遊びに行きました。「大きくなったね!!」とびっくりする先生たち。
「英語、しゃべれるようになった?」「うん」「何かしゃべって!」「何をしゃべればいいのかなあ」困る娘に、「あおむしはなんていうの?」と私が尋ねてみました。「Catapillar」と娘が言うと、先生たちが「おおおおおおーーーーーーーーーー!!!!」と、大興奮。「発音が、ち、違うー!!!!!!」
「そうだ、twinkle、twinkle、little Starは?」
これは、娘たちのクラスが5年前の2月、発表会のステージで英語で歌ったんです。娘の発音を聞いて「きゃあー!!!! ちょっと、ぜんぜん違う!!!」「ごめんなさい、私、変な発音を教えちゃって!!!」「どうします先生!!」「発音を習わなくちゃ!!!」と、先生たちは狼狽するやらはしゃぐやらで大変な騒ぎに。「あっでも、発音は確かにちょっと日本風だったかもしれないですけど、この歌はアメリカでも習ったので、メロディーを知っていてよかったですよ」と、いちおうフォロー(笑)。
発音なんか悪くたって、娘の担任の先生たちは、気づかいも観察力も、歌の正確さも、とにかくレベルが高くて、いい保育をしてくださっていましたから、ぜんぜんどうでもいいことです。アメリカにも良い保育士さんはいましたが、何人かにひとりでした。
日本の保育園では、期間限定でしたが、家族のように毎日毎日ずっと一緒に過ごしてかわいがってもらった保育園の先生たち。アメリカでも、日本の保育園のことを忘れたことはありませんでした。それは私たちだけで、先生たちも同じように思ってくれているわけはないと思っていましたが、私を一瞬見ただけで、血相を変えて駆けつけてくれた先生のことを思うと…。先生たちも、ずっとずっと、私と娘のことを忘れないでいてくれたのでしょう。
確か2歳児クラスは、担任3人で、12人ぐらいの子どもだったと思うのですよね。私が中学校で教えていたときは、いちどに400人教えていたので、その全員はたぶん覚えていないけれど、顧問をしていた吹奏楽部の子たちは今もはっきり覚えているし、養護学校で大人3人子ども6人で過ごしていたときの生徒は、顔も動作もはっきりと覚えています。私が覚えているように、生徒たちも私のことを、まだ覚えていてくれるかもしれないな、と、ふと、思いました。
養護学校で教えていたのは15年ぐらい前で、あのとき中学生だった子達は、もう30歳近くになるはず。どこかの施設に入るなどして、無事に過ごしているといいな。