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音楽センスを伸ばしたい!

音楽ライター山本美芽による、ピアノレッスンに関する取材日記です。

セミナースケジュールはこちらです。 山本美芽オフィシャルサイト

船のなかのピアノ・バー

ノルウェージャン・ドーン号には、フロント前の吹き抜けになっているアトリウムのステージにピアノがあり、もう1箇所、レストランとレストランの合間に階段を下りていく吹き抜けスペースがあって、ピアノ・バーがありました。船の中の演奏はどこで聞いても無料

ピアニストは3人乗船しており、ピアノバーにはかわるがわる登場しました。ウラジミールなんとか氏はロシア系の白髪のおじさまで、クラシカルポップス、リチャードクレイダーマンの「渚のアデリーヌ」とかクラシックを軽めにアレンジしたものなどを弾いていました。

もうひとつはエルトン・ジョンのカバーがお得意の弾き語りお兄さん。ヨーロッパの人みたいでした。

このふたりはそれぞれエンターテイナーとしては十分の仕事をしていて、お客さんたちもそれなりに楽しんでいたようですが、私にははっきりいって物足りなかった。「おおっ」と思うことがなにもなく、「なんだかタッチが雑だな」「調律も結構狂ってるし」とかいろいろ気になりだして。「ウラジミール氏がやっているのなんて、難易度はたいしたことないし、譜面さえあれば私もやれるかも」とか考えちゃったりして。

ところがですよ。夜の10時になると、本格派ジャズピアニストが毎晩出てくるんです。

めがねをかけて、すらっとした感じのアジア人。写真でしか見たことがないビル・エヴァンスを思わせる、繊細で知的で、でもそれほどナーバスではなさそうな感じのいい人です。

基本はジャズのスタンダード。弾き語りもあり、ヴォーカリストとか、船の劇場で吹いている金管楽器奏者の飛び入りもあり、ベーシストとのデュオもあり、そしてピアノソロもあり。もう、なんでもござれ。

このピアニスト、すごく音がきれいなんです。ひとつひとつのノンレガートがいい音で鳴っている。リズムも小気味よくて最高。歌を歌えばまたこれがちょっとハスキーで華やかな声。豪快なノリもあれば、しんみりと聴かせることも。ききいっているうちに、このピアノの調律が変だったことなんて、すっかり忘れてしまいました。

聴いた中で心に残っているのが「アンフォゲッタブル」。

旅のなかで、わぁーすごい! と毎日驚きと発見を繰り返しながらも、ああ、もう一度ここには来れないだろうなあと思うと少しだけさびしくもあり、そんな気持ちに実に寄り添ってくれる歌でした。

ある日、このピアニストと少し話す機会がありました。

フィリピン出身で、いまも5人の子どもと奥さんが家で待っていて、4ヶ月船で稼いだら、ニューヨークから香港またはロサンゼルスで乗り継いで、長い長いフライトでフィリピンまで帰って、何ヶ月か過ごし、またニューヨークに戻って船に乗るんだそうです。

もともとはクラシックのレッスンを受けていたのですが、若い頃仕事をはじめるとき、5人編成のジャズバンドでピアノを弾くことになり、そこからは楽譜なしで全部見よう見まねで覚えたとか。日本では、新宿のヒルトンだったかどこだか覚えていないそうですが、どこだかのシティホテルのピアノバーで弾く仕事をしばらくした、横浜のパークなんとかホテルにも行った、といっていました。でもそれは80年代で、ずいぶん昔のことだそうです。

船に乗って演奏するようになったのは5年前からだとか。とにかく若いころから今まで、5人の子どものうち4人はもう成人しているそうで、ピアノの稼ぎだけで全員それだけ養ってきたんだとか。

歌手と一緒に歌っているときに譜面台にファイルを置いているから楽譜なのかなと思いきや、歌詞だけ。メロディーと伴奏なんて簡単なものじゃなく、かなり複雑なアレンジで演奏していましたが、まあ長年やっていると全部頭に入っているんでしょうね。

そうそう、「一番好きなミュージシャンは誰?」ときいたら「いっぱいいるから答えられないなあ。でも、ナット・キング・コールかな」といっていました。基本的に、ナット・キング・コールを聴いて耳コピーしまくってそれを演奏するパターンで基盤をつくったような口ぶりでした。

毎日、夜の8時、または10時から12時ごろまで、ピアノバーで弾き続ける、それが彼の仕事。

船の中は、通りすがりのお客さんが「おっ」と思えばその前のソファに座って聴き、飽きればさっといなくなってしまう、厳しい世界です。

リチャードクレイダーマンを毎日のように弾いていたウラジミール氏は、いつも横を向いてきょろきょろしながら弾いていて、さびしいのかなーとか心配になってしまいましたが、このフィリピン人ピアニストは、頭は動かさないで、目だけでちらっと客席のほうを見るだけ。手を抜かないできっちり細かいフレーズも弾いています。

席を立っていなくなるお客さんには、歌の間奏のところで"thank you"とにっこりしながら声をかける。こういうところも、なんかいい感じだったな。

こういう、雑誌のインタビューなんかには出てこないけれど、すごく腕のいいピアニストが弾いているピアノバーが、東京にも探せばきっとどこかにあるのでしょうね。そういうところで飲んだら、きっとお酒がおいしいだろうなー。