最近、アメリカに住む日本人の友達から「絶対に飲酒運転しないよね〜えらい」といわれました。うちのあたりは完璧な車社会なこともあって、飲酒運転が後を絶たないんです。
なんでやらないのか??
自分の運転テクニックも、酔っ払ったときの判断力も信用できないので、そんなものに自分の命を預けられない。というのがまず第一の理由、そして
「うーん、物書きしてるから、こんなやつの本読んで感心しちゃったのか〜って読者にがっかりされるようなことはしたくないから」と答えたことがありました。
いちおう本を書いている以上、自分にはきびしくなければ、と思っています。と、書くこと自体恥ずかしいですね、なんだか。本当に自分に厳しい人はそういうことは書かないのかもしれないし。でも、私自身、「自分にきびしく」というフレーズは使わなくても、私が書いたものには、理想として「自分にきびしく」が底流に必ず流れていたのは事実なんです。
だからおそらく、私の本を読んでくださっている読者のみなさんも、なんとなく、自分にきびしくなければ、と思っている方が多いような気がするのです。
たとえばピアノの先生をされている読者で、ブログを書いていたりするような方は、かなりの割合で向上心があって、自分にきびしくありたいと願っているんだろうな、と感じます。
でも、自分にきびしいのって時々すごく疲れるのです。
私は子どもを産んでから、物理的にそれまでと同じように何もかも徹底するのは難しくなったのもあり、少し自分へのハードルをゆるくせざるをえない状況になりました。
ハ ードルをゆるくすると自分のレベルが下がるんじゃないかと怖かったし、実際レベルが落ちた部分もあるのかもしれません。
でも、ハードルを下げるというと、悪いイメージがありましたが、最近は「自分の実態を受け入れる」ことなんだ、と思うようになりました。
理想の自分とは食い違っている自分を、「これじゃだめだ」と思うのは、向上のためのエネルギーにはなる。
けれど、人間には向き不向きがあるし、何もかもパーフェクトにできるわけなんてないし。
パーフェクトで理想的でなくても、まあいいんではないか、と。
ど んな音楽ジャンルでも博覧強記の音楽ライターのほうが確かにすばらしいけど、自分の得意なジャンルだけ詳しいライターだって別にいい。
ピアノの先生は、ピアノがうまいほうがいいけれど、別にそんなコンサートピアニスト級にばらばら弾けなくたって問題ない。
才色兼備な女性は確かにすばらしいけれど、どっちかだけでもそれなりならば、充分すばらしい。
いつも機嫌がよく、かんしゃくを起こさず、子どもの相手をきっちりして、家事も手抜きしないお母さんはすばらしいけど、そこまでできないお母さんでも、そこそこできれば充分。
…なんて、すごく最近感じるようになったのです。
たとえば上原ひろみちゃんのインタビュー本なんか読んでいると、彼女のすさまじい努力がたくさん書いてある。こういうのを読んで「もっと努力してパーフェクトにならないと」と昔の私ならば思ったでしょう。
だけど、努力というよりも、楽しんで続けられることを見つける、といったほうが正確なのです。
彼女と同じ努力を楽しめない自分を「ま、それもそうだよね」と受け入れる。そのかわり、自分が楽しんでできる努力を見つけたら、それだけはどんなことがあっても続ける、やめない、手放さない、執着して、楽しみ、糧にする。私の場合は、好きな音楽を聴き続ける、気になる分野を調べ続ける、ブログを書き続ける、バレエを続ける…まあたいしたことではないんですけど。そういうテクニックというか、コツみたいなものが、最近やっとわかってきた気がします。
上原ひろみ サマーレインの彼方
神舘 和典, 白土 恭子