音楽センスを伸ばしたい!

音楽ライター山本美芽による、ピアノレッスンに関する取材日記です。

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震災から1年

ピアノの先生たちやミュージシャンのかたがたは、被災者支援の活動を一生懸命されている方々がいらっしゃいます。かたや私は、この1年、私も何かできればなと思いながらも、自分のことだけで精一杯で、なにも支援らしいことはできなくて。自分がけっこういっぱいいっぱいだったんだな、と改めて気づいています。

地震の日、ちょうど娘はインフルエンザで学校を休んでいて、息子は入園前。子どもたちと一緒にいました。激しい揺れに、もう、家具や家が倒れるのは別にしょうがない、とにかく子どもたちを守らないと…それだけを考えていました。しかし、ゆれがおさまらず、何分間も続きます。家から外に出るべきか出ないべきか。一番安全であろうトイレの中に子どもたちを来させて、私はトイレのすぐ近くの勝手口のドアを開けて、外に逃げなくていいかどうか、ゆれ具合を必死に観察していました。ゆれがおさまった合間に、靴を持ってきて、勝手口のところに並べて、いつでも外に出られるように。

揺れている最中、ものが自分のほうに向かって落ちてくることは幸いなく、怖い、とはあまり思いませんでした。どうすべきか??? と、ひたすら考え、様子を観察していました。

夫は自転車通勤なので、夕方の5時ごろに戻ってきました。

停電になってしまい、テレビがつけられず、何が起こったのかわかりません。お隣のご主人が、「東北のほうが震源だって」と教えてくれて、はじめて知りました。

いま思うとお風呂に入らず余震に備えたほうがよかったと思うのですが、明るいうちにお風呂に入っておこうと思い、夕方4時ごろに、余震のあいまに急いで子どもたちとお風呂に入りました。

私たちがお風呂に入っているころ、ちょうど津波があちこちに到達していたのでしょう。そのとき、そんなことは、何も知りませんでした。

うちはオール電化なのでご飯は作れず、残り物と冷凍していおいたパンを自然解凍して、懐中電灯の下で夕食にしました。

ご近所の方が、うちには携帯用ラジオがなかったので、貸してくださって、それをずっと聞いていました。

停電しているので、暖房が使えず、家の中はどんどん冷えてきます。布団にくるまるしかないと思い、懐中電灯を頼りに寝室に行き、くるまって寝ました。

そのまま停電が夜の11時まで続き、うつらうつらしていました。夜の11時半に電気がぱっとついて、停電が直りました。そして津波の映像を見たのでした。

停電しているあいだ、電気がこのまましばらく復旧しないかもしれない、というのが一番怖かったです。ですので、電気が復旧して、ほんとうにほっとしました。

明け方に、枕もとにおいておいた携帯電話の緊急地震速報が鳴って、強い余震がありました。あまりの余震の多さ、強さ、そして緊急地震速報の音のなんともいえないまがまがしい和音に、背筋が凍るような思いでした。余震がおさまってもう一度布団にくるまっても、自分の脈で体がかすかに揺れているのが、余震ではないかと思ってしまったりして。

翌日はお米や水やパンなどを買いに行きました。お米がもうすぐなくなりそうだったのです。地震の翌日には、もちろんスーパーは混んでいたけれど、品物がない、ということはありませんでした。でもその後、だんだん品薄になり、開店と同時にお米売り場に行き、ショッピングカートがなくて、5キロの米袋をふたつかついで、必死にレジに並びました。でも、まったく重く感じなくて、「私って力持ち」と思っていたら、翌日すごく筋肉痛になって、火事場の馬鹿力ってああいうことだったのだろうか、と、ぞっとしました。日本に帰ってからは、普段ペットボトルのお水など買わないほうだったのですが、原発に万一のことがあったときのために、翌日のうちに3本だけ買っておきました。

でも、そのときは、何かで原発事故のときは水を確保せよ、と読んでかすかな記憶を頼りに、「とにかく念のため」買っていただけでした。原発事故のあと、なぜ水道水が放射能で汚染されるのか、その流れやメカニズムは、あのとき、よくわかっていなかったのです。

次にスーパーに行ったときは、もう水は、買えなくなっていました。

原発事故の水素爆発の映像を見たときは本当に怖かった…。

神奈川は避難しなくていいのか、パソコンでずっと東京・日野市の放射線量を測っているサイトやツイッターを見続けていました。テレビの情報も見ていましたが、あまり信用していなかった。避難しなくて大丈夫なのか、それだけを神経をとがらせて見ていました。

今になってみると、あのとき「大丈夫でしょう」と思わずに、避難の可能性を考えて注意していたのは、正解だったのでした。結果的に、うちは避難はしませんでしたが。

そのときからずっと今まで、水はペットボトル、食材は事故の影響がない地域のものを選んで買っています。

被害というほどの被害はありませんでした。同じ市内でも、マンションの29階に住む友達は、食器棚がひっくりがえって、停電のあいだはエレベーターが動かず断水で、我が家とは比べ物にならないほどの苦労をしていました。

それでも、いまだに、私は、次の地震が怖くて、それに備えなければという気持ちばかりが大きいのです。支援をしなければ、と思うのですが、実行に移す気持ちまでまだなれていません。

もしかして、アメリカに行き、仕事を休んで出産・育児をするという経験が、自分にとってはあまりに大きな壁だったので、乗り越えたのはいいけれど、まだ、本来の自分にはまったく戻れていない、つねに薄氷の上を歩いているようなサバイバルな感じが続いているから、かもしれません。

前回のブログ記事でも書きましたが、この1年は、風邪をひいたり腰痛神経痛になったりで、体調もほんとに良くなかったのでした。生まれ育ったはずの日本なのに、5年間離れると、気候の変化に、いちいちからだがストレスを感じていたのかもしれません。カリフォルニアは、からっとして冬も日本よりずっと短いので、体が軟弱になっていたことは容易に想像できます。

それでも最近、少しずつではありますが、サバイバルモードでもなく、本来の自分になれている、と思う瞬間が増えてきています。

ようやくここ最近になって、被害にあわれた方々の実際の状況を少しリアルに想像できるようになってきました。

それは思いのほか苦しいことで、うっかり震災ストーリーみたいなものを読むと、胸や息が苦しくなってしまい、ああ、読まなければよかった、と思うこともあり、ネットサーフィンをしていて、「あっこれやめておこう」と瞬間的に思って、いそいで画面を閉じることもあります。

亡くなった方々の思い、大切な人を亡くした方々の思い。原発事故で避難されている方々の思い。それらにダイレクトに触れそうになった瞬間、痛みが走ります。そこで耐えて、その痛みを分かち合える段階まで、まだ自分が至っていません。


今日は震災のことをテレビでたくさんやっていたようでしたけれど、とても見る気にはなれませんでした。


生きているあいだにベストを尽くすしかないな、という思いだけが、強まっています。

これから1年は、小さなことでもいいから、私なりに、少しずつ、できることをしていけたらと思っています。