音楽センスを伸ばしたい!

音楽ライター山本美芽による、ピアノレッスンに関する取材日記です。

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覚悟?

先生をやっていたときから、偉そうにするのが苦手でした。

それは、私自身が「偉そうな人」がとっても苦手だから。

ところがライターになってみると、物書きというのは偉そうにしていないといけない面がある。わからないことをストレートに「わからない」と言うのは許されない面があるのです。わからなければ調べてわかるようにならなければならない、それが仕事の一部なのです。

それでもできる限りタカビーな言葉づかいはしたくない、わかりにくい文章も自分が読んでいてなんとなく「どーせ私は難しいことはわかんないもん」と面白くなくなってくるので自分もなるべく書きたくない。

ネットでものを書き始めたばかりの頃は、なんでも感じたことを全部言葉にしてそのまま出していました。でも、そんなふうにストレートでなまなましいままの言葉だと、リアルな知人が読んだときの反応と、見知らぬ人が読んだときの反応がものすごく違う。それが、ネット社会と公の媒体、そして自分の本、いろいろな場で書き続けるうちにわかってきたのです。

 それは良い意味で客観性が出てきた証拠なのかもしれませんが、経験を積めば積むほど、「これはこう誤解される」と思いつくことが増えてしまい、ちょっと怖くなってしまっています。

 これまで、公の媒体にものを書く人は、オフィシャルな書き手としての自分と、プライベートな書き手としての自分がきっちりわかれていたのではないかと思います。私もオフィシャルな書き手として仕事モードのときには、偉そうに見られてもなんでも、書くべきだと思うことを書くだけです。でも、ブログだとか、日記だとか、プライベート寄りのように見える場所であっても、同じ名前で書くのであれば、結局は同じ責任が発生するわけで。

 結局、いつでも自分の名前を背負って、責任を持って書くべき立場になったわけです。

 責任って何なのでしょうね。あやふやなことを軽々しく言わないこととか、他人に面と向かっていえないことは書かないとか。それに努力を要するということは、日ごろ活字にならない日常会話では、あやふやなことを言い、他人に面と向かっていえないことを考えている証拠なんでしょうか。とほほ。ま、人間だから、仕方ないといえば仕方ないですが。

 とはいえ、自分のなかでカチッとスイッチが入って、文章の世界に没頭していると、書きたい気持ちが先走り、読み手のことをだんだん忘れてきます。私の場合、その勢いを借りなければ、大量の原稿はとても書けません。結局あとから読み返して「この表現はまずいだろう」とあれこれ直して苦労しているわけですが。

 ただ、いくら直しても、誰も傷つけないようにどれだけ神経をつかっても、結局、書く以上は、誰かを傷つけたり、面白くない気持ちにさせることは避けられないのだと、最近強く思います。

 だったら開き直って、偉そうに見えても仕方ないと構えるべきでは? とは思います。書く以上は、嫌われ、憎まれ、うとまれる覚悟がいるのだから、そのあたり、もうちょっと腹をくくろうよ? と、もうひとりの自分が言っています。

 わかってはいるんだけれど、単行本が出る前って、どうもこのあたりがナーバスになっちゃうんですね。でも、アメリカに来てから、「もうどう思われてもいいや、信じることを書くだけだ」的な開き直り具合がさらに増した面はあるので、それは良い傾向かも。